表 紙(P.1)

image08

目 次(P.2)

           □ 禊を行い公益法人へ(P.3-10)

           □ あなたには黙秘権がない(P.11-14)

           □ 沖縄の負担を分かち合おう(P.15)

           □ パル判事(P.16-17)

           □ 助産師法と医師法の狭間で(P.18-26)

           □ アウトロー(P.27-33)

           □ 許されざる者(P.34-37)

           □ デモクラシーの崩壊(P.38-43)

           □ 我が学生時代(P.44-45)

           □ 医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.46-54)

禊を行い公益法人へ(P.3)

 

Ⅰ、県医師会は財産を寄付し身軽になり公益法人になって頂きたい。

 

古事記に黄泉の国から帰還したイザナキノカミは黄泉の国の汚れを落とすために禊を行なったとあります。災害の多いこの列島に在住した我々の祖先は生きるためこの禊という慣習を身に付けたのでしょう。良い神も悪い神も崇め恐れ悪い神が怒ったときは我々の行いに罰せられるような忌み事があったのだとして身を清めそれぞれの我欲を捨て共同体としての公益を図り困難を乗り越えて行きました。だからこそこの日本という国が存続して来たのです。その知恵はこの禊という行いにあります。公共精神と言ってもいいでしょう。未曾有の災害に合い、(いやこれは未曾有ではありません。過去我々の祖先が何度も経験し乗り越えてきた事です)今求められているのは国民的自覚です。自覚は反省を伴います。石原知事は今回の災害を「天罰」と言い、「これを機にアカを洗い流せ」と言ってマスコミに叩かれました。しかし彼の言っている事は正しい。この考え方は古来の日本人からすれば当然の思考なのです。災害を機に精神の浄化を図り、その力がこの国の再生の基となっています。被災地にはまだまだ金がいります。禊を行なうという事は身を削ぐという事です。山口県医師会が公益法人になれないのは遊休財産が多すぎる為であると聞きました。贅肉が付き過ぎてハードルをまたげないとは恥ずかしい事ではありませんか。県医師会に貯まっている財産を被災地に差し出して欲しい。何年かかけてこの財産を処理し、いずれ公益法人を目指すというお考え方のようですが、それは違います。金を吐き出すのは今です。義捐金というのは金を捨てるという事ではありません。現場に金をつぎ込むという事です。そのつぎ込んだ金は廻り回ってまた帰って来ます。そういうしくみになっているのです。先の神話も禊を行なったそのアカから色々なものが生まれています。これは再生なのです。いけないのは金を滞らせる事です。

 

Ⅱ、次に産婦人科として県医師会に公益法人になってもらいたい理由を述べて行きたいと思います。これには産婦人科固有の事情があります。

禊を行い公益法人へ(P.4)

 

県医師会が公益法人の資格をとれないと、県医師会は母体保護法指定医の指定権を失う事になります。医療に関する各種資格は厚生労働大臣から交付されています。医師の資格、看護師の資格、臨床放射線技師の資格等々です。ただ母体保護法指定医資格だけは特殊でこれは民間団体である都道府県医師会から都道府県医師会長命で発行されています。このような指定の例は他にありません。この指定権は母体保護法の中に規定されています。さてその指定権に関する法の文言ですが、平成20年以前は「母体保護法第14条、都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる」でした。それが平成20年にこの"社団法人たる"という文言が"公益社団法人たる"に書き改められました。新公益法人法制度は平成20年発足から暫定5年の平成25年から効力を発します。つまり平成25年に公益法人でない山口県医師会は母体保護法指定医の指定権を失うことになります。山口県は母体保護法指定医の指定及びその更新が出来ない空白の地帯となるのです。それは困ります。なら平成20年以前の法に戻せばいい訳なのですが、法を元に戻す事は頑として厚生労働省は応じない姿勢です。

 

本題に入る前にここでちょっと数年前の看護師内診事件の事を述べておきます。厚生労働省は平成14年11月14日と平成16年9月13日に医療機関における看護師の内診は違法であるとの見解を出しました。これを受けて警察は看護師の内診は違法だとの認識のもとにそれを行なっている医療機関に捜査の手を出しました。何人かが検挙され、ある者は罰金刑に処せられ、刑を免れる条件で医院を閉院させられた者もいます。閉院に追い込まれた老院長はその後医師免許も返納しています。これらの結果医師一人で看護師相手に分娩を取り扱って来た弱小個人産婦人科開業医達はお産から手を引いて行きました。行き場を失った妊婦達はこの時お産難民として話題になったのはご存知の事と思います。その後患者達は複数医師と助産師を多く抱える大病院へ移って行きました。集約化が成功したのです。だが周産期医療世界一になったこの国の産科医療を支えて来たのはそうした地方で頑張って来た個人開業産婦人科医ではなかったのか。

禊を行い公益法人へ(P.5)

 

彼らは無残にも潰されてしまいました。看護師内診は違法であるとしたこの厚生労働省の法解釈は間違っています。警察検察は厚生労働省の言う事に間違いがあるはずがないと思っていますが、これは明らかに間違った法解釈でした。違法でないは拙著日本医事新報2006年10月14日号「看護師の内診は違法か」に示してあります。

 

しかし結果的に我々は厚生労働省のゴリ押しに負けたのです。泣き寝入りです。そして今度は厚生労働省は母体保護法の管理を自らの手中に収めようと画策しています。その為、母体保護法の文面を平成20年以前に戻さないといゴリ押しに出ているのです。今度は負けてはなりません。

 

さて日本医師会や日本産婦人科医会は日本医師会にその権限を移すあるいは日本産婦人科医会にその権限を移すような法改正をしたいとして国に要望を出しているようです。しかしそんな要望に厚生労働省が応じる訳がないでしょう。厚生労働省としては自分の所にその権限を持って行きたいのです。この文章をお読みになっている先生方もこの資格は厚生労働大臣から交付される方が自然なのではないかとお考えの事だと思います。だが本当にそれでいいか考えてみたいと思います。

 

ここで現行の母体保護法指定医の指定権を県医師会が持った経緯を説明しておきます。母体保護法の前身である旧優生保護法が制定されたのは昭和23年日本が米軍の占領下にあったときです。GHQはこの優生を保護する、裏返せば劣勢の種を絶滅する、という思想を内蔵する法を日本政府に任せておくのは危ないと考えたのでしょう。そこで地方医師会にこの法の施行を任せた。医師なら安全であろうと考えたのです。そしてそれが母体保護法に受け継がれ現在に至っています。

禊を行い公益法人へ(P.6)

 

当時の優生保護法は本人またはその配偶者に精神病、頼病、遺伝的奇形がありその劣勢遺伝子が継続されていくのを防ぐという考えの基にその人物の在住する市町村長が人工妊娠中絶の判定を下す法文になっていました。これは本人の意向に係らず強制的に中絶及び不妊手術が行われるものです。ただその決定が出されて2週間以内なら本人らの不服申請が受け付けられ、再審査が行なわれるという法文になっています。中絶施行の判定を下すのは市町村長であり、その手術を実行するのは地元県医師会から認定された優生保護法指定医なのです。その他、経済的理由での本人の希望により優生保護法指定医がそれを行いました。

 

これを精神保健指定医と比較してみます。精神保健指定医は厚生労働大臣によりその認定を受け、指定医の判断により強制入院及び強制身体拘束を行なう事ができるとなっています。優生保護法指定医と類似はしていますが優生保護法指定医には患者本人の意思に逆らい強制的にその行為を行う権限がありません。強制的にその行為を行う決定権を持つのは市町村長です。この両指定医の違いを頭に入れておいてもらい次の論に移ります。

 

現在の母体保護法では市町村長の強制中絶は削除されました。現存する中絶理由のは以下2つのみです。

 

1.妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの

 

2.暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの

 

この2項目だけに絞られました。

禊を行い公益法人へ(P.7)

 

つまり強姦以外は"母体の健康を著しく害するおそれのあるもの"でなくてはなりません。経済的理由にしてもその困窮度が酷く妊娠の継続が健康を著しく害するおそれのあるものでなくてはならない。現在の日本の妊婦にそのような状況が起こる事はまずあり得ません。つまりは医学的適用外の中絶は認めないという事です。だが現状では健康な妊婦の正常な妊娠もこの手術が行なわれています。これを法的にどう説明するか。「望まない妊娠を継続することが妊婦の精神身体に悪影響を与える」とかなりの拡大解釈をしてこの違法性を免れているのが実情です。しかしこんな言い訳が公の裁判の場で通用するとは思えません。違法中絶と言われたらそれまでです。ここにこの法の欠陥があるのです。社会的適用でやってくれと言いながら医学的適用しか許さない。

 

法が書き変えられ市町村長の強制中絶が廃止されたとき、精神保健指定医と同様に母体保護法指定医に中絶の決定権を全て任すとした法文にしなくてはならなかったのです。精神保健法の文面をそのまま拝借し「母体保護法指定医は厚生労働大臣によりその認定を受け、指定医の判断により中絶手術を行なう事ができる」としておけばよかった。"母体の健康を著しく害するおそれのあるもの"という語句を削除してあればよかったのです。ここまで指定医に強大な権限委譲が行なわれていれば指定医の判定に誰も文句を付ける事は出来ません。こうなっていれば指定権が県医師会長でなく厚生労働大臣にあってもよかったのです。しかし現状はそうなっていない。今の法では母体保護法指定医にそれだけの権限がありません。母体保護法指定医は中絶手術を行う為の必要条件ではあるけど充分条件ではない。中絶の条件を満たす為には母体保護法14条を満足させていなくてはならない。ではこの母体保護法を管理しているのは誰でしょうか。厚生労働大臣ではなく県医師会長県です。実際には県医師会長から委任された母体保護法指定医審査検討委員会がこの任にあたっています。この委員会は山口県医師会から1名、山口産科婦人科学会から3名、日本産婦人科医会山口県支部から3名の計7名より構成されています。産婦人科医会とは母体保護法指定医の集まりで、旧名称は日母と言いました。ほとんどの産婦人科医はこの医会と学会の双方に所属しています。

禊を行い公益法人へ(P.8)

 

という事は7名中少なくとも6名は産婦人科医である委員会がこの法の管理を行なっていることになります。その委員会が会員に対し「中絶の適用はちゃんと法を守って行って下さいね」と言い、会員は「ハイ、分かりました」と言っているから法に欠陥があっても成り立っているのです。この委員会を構成する人間もこの手術を行なっている母体保護法指定医なのですから。中絶手術報告書は毎月指定医から医会支部に送られ委員会で法に適合した手術であったか確認された後集計して各所属保険所に報告されています。これら手術に違法性はなかったという事を委員会が証明した形になっているのです。

 

さてこの法の管理者が厚生労働省に移行したらどうなるでしょうか。厚生労働省が法を文面通り解釈し、違法中絶は禁止するという指令を出したなら、警察は違法中絶を行った医療機関に捜査の手を出すかもしれない。警察の捜査が入らなくとも厚生労働省がそのような方向性を出しただけで産婦人科医は中絶手術を止めるでしょう。看護師内診問題のときは違法ではない事を違法と言われたのだからまだ反論の余地はありました。しかし違法中絶は本当に違法なのですからぐうの音もでない。産婦人科医はこの手術を止めざるを得なくなる。では大病院にこの手術が集約化するでしょうか。いや大病院ほどこの手術の適用に厳格なのです。どこも手術を引き受けるところがなくなる。そうするとどうなるか。闇中絶が横行しこの法が制定される前の戦後の混乱期に舞い戻りです。更に懸念されるのはRU486やプレグランディンという薬剤の存在です。RU486は日本では承認されていない経口妊娠中絶薬で、プレグランディンは中期中絶用に開発された膣座薬で母体保護法指定医により麻薬並みの厳重な管理が行われています。いま巷には出回っていませんが、日本で売れるとなれば海外からネットで流入してくる可能性が十分あります。一歩使い方を間違えれば大変危険なものです。厚生労働省がそんな患者か困るような事はしないだろうと考えるのは早計です。看護師内診事件の例があります。机の上でこれは違法だと判断すれば現場の事情などお構いなく正義の鉄拳を下すでしょう。

禊を行い公益法人へ(P.9)

 

ではそのような事態にならない為に法を改正する必要があるでしょうか。考えられる法改正の1つは先に述べたように精神保健指定医と同様に母体保護法指定医に全権限を与える法にすることです。もう1つは女性に産む権利産まない権利を与えるという法にすることです。ただ両法改正ともあまりよろしくありません。前者はいいようにも見えます。しかしその指定医が全権限を持った場合、医師法19条との競合が起こって来ます。診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならないという法です。患者に中絶手術を要請された場合医師は断る事が出来なくなる。今の法のままであれば、あまりに患者の自己中心的な要求に対してはそれは法で禁じられていると断る事が出来るのです。今のこの法の方が我々には使いやす。もう1つの女性に産む産まないを選ぶ権利を与えるという法改正ですが、現実がそのように行なわれているのだから法もそのように書き換えればいいではないかという考え方もあるでしょう。しかしそれは刑法上の堕胎罪という法文を死文化する事になります。堕胎罪という法は殺人罪や傷害罪に並ぶ崇高な法です。レイプは別として通常の男女の営みから生じた妊娠はこれを堕胎してはならない。それは法に触れるのだという認識は持つべきです。「女性には中絶手術を受ける権利がある」と声高々に訴える風潮は避けるべきです。手術を受ける女性も手術を行なう医師もひょっとしたら法に触れているかもしれないぞという気持ちがみだりにこの手術を行わないという抑制力になっています。法はこのままでいいのです。ただこの法は今まで述べて来たようにそれをうまく使いこなす技がいります。到底この技は厚生労働省は持ち得ないでしょう。厚生労働省には手に余る法であるから専門科に任せるのがいいのです。この法の管理を国ではなく地域医師会に任せたGHQの判断は賢明でした。何の不正な事も起こらず混乱も起こらず医師達がよく管理して来ました。このままで行くべきです。法の文面の語句を"公益社団法人"から元の"社団法人"に戻すだけでこの問題は解決します。しかし厚生労働省は応じないでしょう。厚生労働省は今がこの権限を取り戻す千載一遇のチャンスだと考えていることは間違いないのです。そう考えるのは医療を管理しているという自負を持つ厚生労働省にとれば当然の帰納なのです。しかしこの法は彼ら役人には手に余る。国がしゃしゃり出て判断を誤り事を重大化してしまう事は今度の原発事故でもみられました。

禊を行い公益法人へ(P.10)

 

専門家に任すべきなのです。ただ厚生労働省は聞く耳をもたない。厚生労働省が法の文面を元に戻すことを頑なに拒んでいる今、県医師会が公益社団法人化するしかありません。山口県医師会には山口県医師会がこの地区の産婦人科医とこの地区の産婦人科患者を保護しているという自覚とプライドを持ち続けて下さる事を庶幾うばかりです。

あなたには黙秘権がない(P.11)

 

You have the right to remain silent.(あなたには黙秘権がある) 「あなたには黙秘権がある。あなたの供述は、法廷であなたに不利な証拠として採用されることがありうる」これはアメリカの刑事ドラマや映画で犯人逮捕のときに読み上げるおなじみの文章である。アリゾナ州ミランダ事件以降確立されたものとなった。この権利を読み上げないで得た供述は裁判では証拠として採用されない。また違法な捜査によって得た資料も証拠として採用されない。誘拐・婦女暴行で捕まったミランダはこの権利を知らされなかったまま供述させられたとして無罪となった。そこまで徹底しなければ国民の権利は守れないというのだろう。

 

 今回、医療事故調査に関する検討委員会が日医原中勝征会長に提出した「医療事故調査制度の創設に向けた基本的提言」に対する答申を見て思うのである。ここにはこう記載されている「①医師の職業規範・自己規律とその社会的責務において事故の原因を究明し再発を防止する制度を自立的に構築・運営する。 ②医療事故は刑事司法の問題としない。③調査結果は公表するが警察には通報しない」このように書かれている。しかしそうは言っても、"医療事故は刑事司法の問題としない"とは事故調査委員会が自分でそう主張しているだけであって、警察が刑事司法の問題にするか否かは警察が決めることである。また"世間には公表するが警察には言わない"と言っても警察が知るのは時間の問題であろう。つまり事故調査委員会が調べた事は裁判で証拠として採用される事は疑いようもない。

 

 この法案が通れば事故調査委員会の実質的な強制調査の前に医師は自白を迫られることになる。

 

 このことはすでに産婦人科境域で立証済みである。産科医療補償制度において分娩障害児と認定されたものには患者側に補償金3000万円が支払われるが、その場合事故調査委員会の調査を拒否した医療機関はこの制度から外されることになっている。患者に補償金は支払われない。

あなたには黙秘権がない(P.12)

 

これでは医師が自主的に告白しているという体裁を取らせつつその実は自白を強制されているのと同じ事だ。

 

 先日その機関からの調査結果が発表された。調査した分娩事故症例15例のうち9例に不適切な医療行為があったとする結果だった。後から調べれば何かの不備は出て来るだろう。これはただ揚げ足を取っているに過ぎない。補償対象となっている症例はすでに178件に達している。全てを調査するとこの割合からいけば100件以上の不適切事例が出て来るであろう。心配なのはこれを見た医療事故訴訟専門の弁護士が勝算のありそうな症例を選んで訴訟を誘発して来るのではないかという事である。また死亡については、分娩による妊婦死亡も医会本部に届けそこからの調査を受ける事となった。その研究班の調査結果も先日発表された。昨年1年間に全国で出産時の大量出血で死亡した妊産婦は16人おり、うち10人は処置が適切だったならば救命できた可能性が高いと結論した。医師に過失ありと言っているのは明白である。片手落ちと感じるのは医師の反論の場が設けられてない事である。

 

問題なのはこのような供述が強制力を持って行なわれていいかという事なのだ。真実の追求が必要なのは明らかである。しかし患者の権利を守るというきれい事をもって医師の基本的人権を奪っていいものだろうか。

 

 明治憲法下では犯罪者が白状するのは当然の義務であり、この義務を冒し白を切るのも犯罪と認識された。江戸時代もしかり。よって自白の為の拷問も取り調べる側には当然であった。しかし現憲法下ではその38条に"何人も、自己に不利益な供述を強制されない"とあり、どんな極悪人であろうと彼の基本的人権は保障されている。

 

今度の医療事故調査に関する検討委員会はこの産婦人科領域で起きた間違いを踏襲しようとしている。これは憲法違反なのだ。間違いを繰り返してはならない。

あなたには黙秘権がない(P.13)

 

患者に訴権があるのは当然である。この権利を奪ってはならない。しかしその権利の施行の為に医師の自白を強要するという手段を用いてはならないと言っているのだ。カルテ押収等の法的手段は残されているのだから。

 

真実の追究は大切である。しかし真にそれを行なう為には当事者医師の心の中まで踏み込まなければ真の回答は得られないであろう。それには飛行機事故調査と同様に当事者医師の法的責任を免徐の上、調査に協力させなくてはならない。

 

そのような法的処置を講ずるか、あるいはその証言に証拠能力を消失させる法的処置を行なう。つまり裁判で使えないようにするか。1つの方法はこれを憲法38条違反であると前面に提示することである。調査団は違法である事を承知の上で強制的聞き取りを行なう。こうして得られた情報は医学的資料としては有用であるが、法廷での証拠能力を持たない。ミランダ権利を逆手に利用するのである。問題は違法行為をする調査団が罪を着せられることになるのではないかという事であるが、この調査団の違法行為は罪を問わないという法を作ってしまえばいいのである。

 

これらは法を書き換えるという事だが、法を書き換えなくても現行法のままでも出来る方法もある。それはこの調査委員会の各委員会のトップに弁護士を置く。その弁護士と調査を受ける医師がクライアント契約を結ぶ。弁護士の守秘義務は刑法に定められているものであるから機密性は担保できる。調査委員は得られた資料の中から学問的に有用なソースを持ち出して行けばいいのである。全体像は公にしない。

 

私の貧弱な頭からもこの真実を得かつ医師を訴追しないという方法はいくつか見つかる。医療事故調査委員会も頭を絞りいい方法を模索して欲しい。

あなたには黙秘権がない(P.14)

 

それを作り上げた後、医療事故調査委員会は聞き取りを始める前に医師にこう告げるのだ。これは日本版ミランダ警告と言える。「あなたには黙秘権がない。ただしあなたがこれから述べる事は法廷では採用されない」

沖縄の負担を分かち合おう(P.15)

 

 二井関成山口県知事、福田良彦岩国市長に、岩国市民の一人として申し上げます。在沖縄米海兵隊を米軍岩国基地に駐留させたいとの米国側の打診に対し、断固反対の姿勢をとっておられますが、決して断ってはいけません。、めせ。  

 米国は日本の同盟国です。今の日本の軍事力ではロシア・中国からの圧力に耐え切れないことは明らかです。米国の協力なしには日本の国防は成り立たず、同盟国としての責任を果たさなけれぱなりません。

 

 ただ自分の地城のことのみを考えるのではなく、日本全体として俯瞰的に事態を見据えていただきたい。

 

沖縄の負担を日本国全体で分かち合おうではありませんか。たとえ痛みを伴う負担であっても。

 

 海兵隊の受け入れを拒否しておいて、もし山口県で大規模災害が起こったとき、あなた方は彼らの「トモダチ作戦」も拒否するのですか。彼らを仲間として迎えるべきです。

産経新聞 2012/2/17 「談話室」に掲載

パル判事(P.16)

 

―日本の若い女性に―

 

 新しい環境に順応するには、社会は新しい生命力を必要とします。そのために社会が最も期待をかけるのは、若い人たちの中でも女性、つまりあなた方です。現在のあなた方は、知的にも道徳的にも最も感受性に富み、最も受容力の大きい時期にあります。学校教育から、本物とにせ物を見分ける能力、お国の将来を形成していく力についての知識を得てください。―中略― 皆さんひとり残らず、どんなことに出会っても、勇気とやさしさと美しい魂とで、処理してください。世界を歩む美女は何万といるが、どんな飾り付けて見せても、貴方の完全な美しさとは比べものにならないと、尊敬の念をもって言われるように行動されることを願っています。

 

 これは昭和41年パル判事が来日した際に残した日本の若い女性へのメッセージである。昭和23年、東京裁判で選出された11人の判事のうち10人の判事が被告有罪という判決を示す中ただ一人パル判事は日本人全員無罪判決を出した。その判決文はやや難解ではあるが理論的で緻密な分析が為されており現在読んでも充分に通じる代物である。1648年宗教戦争が終わったときのウエストファーリア条約、その後のケロッグ=ブリアン条約いわゆるパリ条約についての卓越した見識、また事後法は用いてはならないとする確固たる姿勢は今現在においても通ずるものである。そして勝者が敗者を裁くこの東京裁判こそ犯罪であるとする理論展開には驚愕するのである。他の判事達の判決理論は勝者への迎合であり欧米側にへつらって自説として述べているにすぎない。今となっては誰も支持するものはいない。その中パルの論理は70年100年経って輝きを増す。真理を突いているからである。

 

 それはさておきこの上記文章に出あったとき衝撃を受けた。産婦人科医として学校から性教育を依頼され、ただ避妊・STDの予防だけを教えるだけの自分の言動に疑問を感じたのである。学校側も医師にそれを要求する。

パル判事(P.17)

 

性教育の専門科と称する人達は「今はもう初体験は中学生ですからね。中学校低学年でこれらを教えなればいけません」などと賢しら顔をする。世の中そうなっているのだからそれに合わせろというのである。個人主義の風潮がはびこり、誰にも迷惑をかけずに個人々々が性を楽しむのだからいいのだと考える。医師はそこでの弊害を抑える為に協力するのが努めなのだと見なされている。だが本当はパルの言葉のように母体の神聖さこの国におけるその重要さを子供達に教えてやらなくてはならないだろう。一番それが分かるのは産婦人科医ではないかと思う。性教育とは人間教育である。65年前に戻って教育勅語からやり直せ。

 

 さて視点を現在の我々の仕事に移してみる。ここでも個人主義の弊害の波が押し寄せている。今どれほど多くの医師が裁判で被告の側に座らされているか。 彼らは罪人ではない。医療が患者の要求通り行かなかったからと言って敗戦の罪を負わせられているのだ。何でも欧米化して訴訟ばかり不毛な議論ばかりしている国にしてしまった。学会もそれに追従し、個人の幸福の追求が先決で社会全体の大益は二の次だとの風潮に押し流される。世に阿(おもね)いて学を曲げている曲学阿世の徒になり下っているのだ。裁判での被告医師に他のどれだけの大学が有罪という判定を下したとしても当教室は無罪と思うという結論を出したなら口をつむいでいてはならない。ここでは実際の判決の如何よりも医師の誇りを保つ事が大切なのだ。我が教室には「結果は問わない。考え方が合っていればよい」という伝統があった。結果はどうでもいいというのではない。結果を出す事が大切なのは百も承知である。しかし結果ばかりに惑わされて真理を見逃してはならないという姿勢なのである。産科学は医学の中で最も多くの不確実性を含む学門であろう。その中で現時点での動向に惑わされず真理を追求しようとする姿勢を保つ事が将来の真の結果を産む。パルのように孤高であれ。70年100年後の評価を得るのは頑固に伝統を守る我が教室である。

日本大学医学部 産婦人科学教室 同窓会誌ヒョリオンズ第32号 2012年に掲載

助産師法と医師法の狭間で(P.18)

 

はじめに

 

2006年堀病院事件が起こった。医師が保健師助産師看護師法違反で警察に摘発されたのである。看護師による内診行為の違法性が問われた事件であった。同様の事件はいくつか起こり、県による行政指導も行われた。看護師に内診させてはいけないというものである。これは産婦人科開業医にとっては死活問題であった。助産師を雇おうにも助産師の数が圧倒的に足りない。すでに助産師達は大病院に偏在していた。看護師に内診させられないとなると分娩進行の推移は医師が付き切りで診ていなければならない。しかしそれはあまりに過酷である。結局、医師看護師体制での産科医療体制は不可能となった。そして分娩を止めた産科医療機関が多数出た。その為、地方でお産をする場所がなくなり社会問題となったのは記憶に新しい。これに危機感を覚え急遽多数の助産師養成学校が設立されることになった。ここに来てすでに卒業生が多く輩出され、一応助産師偏在の産科医療体制も一息着いたとみられる。これで個人開業産科医のところへも助産師が充足してくることだろう。しかしこれで終わりではない、これは新たな混乱の幕開けである。

 

Ⅰ、助産師法と医師法

 

助産師の数が増すことにより助産師法の適用も増す。ここで助産師法というものを解析してみたい。

 

1、助産師法と医師法の関係

 

保健師助産師看護師法は保健師法、助産師法、看護師法の3 つの法を統合したものであると考えることができる。解り易くする為に助産師法という法を1 つの独立した法として取り扱ってみる。医師法と助産師法の対比として見てゆく。

助産師法と医師法の狭間で(P.19)

 

助産師法と医師法の関係を検討する前に歯科医師法と医師法の関係を見てみる。歯科医師は一般医療を行えない。一般医師は歯科医療を行えない。当たり前の事である。前者は歯科医師法下にあり後者は医師法下であり互いに独立している。しかし口腔外科の専門医の中には医学部6年と歯学部6年の両方を出て医師免許と歯科医師免許の両者を収得している者もいる。彼なら歯科治療も医療も同時に行なう事が出来る。このダブルライセンスを持つ教授なら医師にも歯科医師にも命令することができる。

 

次に助産師法と医師法を見てみる。医師は助産師免許を持っているか。医師免許を取ったとき同時に助産師免許を持っていると解釈できるか。いや助産師免許を持っていないのだ。助産師免許が欲しいなら医学部を出た後、更に4年学校に行く必要がある。だがそんな医師はいない。医師は医師法下で分娩を扱い、助産師は助産師法下で分娩を扱う。この両法は"and"ではなく"or"の関係にある。つまり分娩を扱うときどちらか一方の法が成立してればいい。

 

医師は助産師免許を持たない。ならば助産師法下にいる助産師に指令できる立場にあるのだろうか。雇用主が医師であったとしてもである。例えば総合病院を経営する医師が歯科医師を雇用し歯科部門を開設した場合、医師は歯科医師法下で行なう歯科医師の診療に口出し出来ない。同様の法関係が医師と助産師に言えるのではないか。医師が助産師を雇用した場合、この助産師は助産師法下において仕事をするとすれば法的に医師はこの助産師の行なう業務に口出しできない。医師が歯科医師や獣医師の仕事に介入できない法構成は医師と助産師の間にも成立する。医師が助産師に命令したいなら医師は医師と助産師のダブルライセンスを取得していなければならないことになる。これが助産師が医師の管理下にないとする正当な理由である。

 

2、法の欠陥

助産師法と医師法の狭間で(P.20)

 

助産師量産体制に入ったとき、"助産師は医師の指示の基、助産を扱うことができる"の一文を法に追加するべきだった。これは診療放射線技師法等と同様の文言である。こうすれば診療放射線技師や薬剤師と同じく助産師も医療従事者足り得たのである。だがそうなっていない。これは法の欠陥と言うべきであろう。今いる助産師達が医師の命令に逆らうとは思えない。だがこれは不文律のしきたりで医師の下で働くとなっているだけである。今後ともその精神が引き継いで行かれるかは分からない。法の欠陥が将来に禍根を残す。近時的な例で言えば明治憲法の欠陥が昭和の時代になって発露したことにそれがある。元老達が生きているうちはよかった。日清戦争、日露戦争はそれで持った。しかし元老達が死に絶えた昭和、軍は政府の管理下にないという法の欠陥が表面化したのである。今の産婦人科の長老たちがいなくなり、若い助産師達が育ってくると法の欠陥は露呈する。いやもうすでにその傾向は見えている。助産師は医師の管理下にない。あるいは助産師法下の助産師は異常分娩に従事する事はできない。その業務は断ります。という主張である。この主張はいずれも法的に正しい。医師と助産師の間でなぜこのような法の欠陥が生じたが。それはこの法の作成当時、助産師が医療機関で働くことを想定していなかった為である。

 

Ⅱ、何が違法で何が違法でないか

 

何が違法で何が違法でないかを見極めなくてはならない。

 

1、産科医療現場に助産師法と医師法が混在してくる今後、法構成をどのように理解すべきか。

 

出産に助産師と医師の双方が立ち会う。この助産師法と医師法の同時成立が最も一般的な形となる。片方のみ成立する場合もある。助産師が執務しておらず医師のみが立ちあう場合もあるだろう。このとき医師法のみが成立する。

助産師法と医師法の狭間で(P.21)

 

医師法は存在せず助産師法のみ成立する場合もある。いい悪いは別として医師が海外旅行に行く。助産師は残りお産を取り上げる。異常があれば2次病院に送る。これで法的には問題はない。ただしこの場合看護師は出勤させてはならない。通常の診療でも医師が不在のとき外来は閉める。看護師のみ出勤し注射や投薬はしてはならないのと同じである。 医療機関においての助産師法下のみの業務は法的に可能だろうか。可能だろう。逆の場合、つまり助産所での分娩に医師が呼ばれる。医師が助産所に着くとそこは医師法下におかれる。自宅分娩に助産師が呼ばれる。そのときその自宅は助産師法下にある。同様に医療施設であっても助産師法下のみにおかれるのも可能だ。その典型的なものが院内助産所と呼ばれるものである。ここの法的位置づけが今一よく分からないが、医師法下にも置かれているとするなら一般の産科病棟と同じである。わざわざ院内助産所と呼ぶ意味がない。たぶん助産師法下のみにおかれているとされているのだろう。助産師法下のみにおかれるのなら看護師の勤務は出来ない。助産師外来も同様である。医師が妊婦検診を行なう場合、これは医療の一環である。そこで働く看護師は医療の補助をしている。助産師が妊婦検診を行なう場合これは助産の一環である。助産師法下の助産の補助は看護師の業務にない。ここに看護師を勤務させることは違法となる。だがこの外来が医師法下に置かれているとするなら看護師を勤務させることは可能である。しかし医師不在の場合は外来を閉めなくてはならない。2007年に医政局長の出した通知"看護師は助産師の指示のもと助産の補助を行なう"は法的に間違っている。このような解釈はどの法からも導けない。看護師の業務は"看護"と"医療の補助"のみである。

 

2、堀院長は本当に法を犯したのだろうか。

 

医師は医師法下で助産を行う。助産師は助産師法下で助産を行う。共に立脚する法が違う。医師ははじめから助産師法を犯しているのである。助産師法の枠外にいるのだ。だが医師は疾患でない正常分娩を扱うことが法的に許されているのだろうか。正常分娩は助産師が扱う。異常分娩は医師が扱う。法的にはこのように棲み分けされている。

助産師法と医師法の狭間で(P.22)

 

よって医師は正常分娩を扱うことが出来ない。ということが言えるか。いや、この解釈は間違っている。正常分娩であろうと医師が扱えば医療の範疇に入る。予防医療という考え方が当てはまる。正常な分娩の流れを横でただ見ている。異常が起これば手を出すのである。堀院長が罪に問われた看護師内診について見てみる。助産師会は「助産は助産師または医師でなければ行なってはならない。看護師にこれを行なわせるのは違法だ」と主張する。しかし法文を読むと、「助産は助産師または医師でなければ行なってはならない」とは書いてない。保健師助産師看護師法30条は「助産師でなければ助産を行なってはならない。ただし医師法下ではそのかぎりではない」となっている。「助産師または医師でなければ行なってはならない」と「医師法下ではそのかぎりではない」は同じことではないかと思ってしまいがちだが、実際は大違いである。比較する為に診療放射線技師法を見てみる。診療放射線技師法の方は「医師、歯科医師又は診療放射線技師でなければ人体に放射線を当ててはならない」となっている。つまり看護師にこれをさせれば違法である。これを指示した医師も診療放射線技師法違反となる。また医師自身がこれを行なった場合、診療放射線技師法を満たしている事になる。助産に関して言えば、医師自身がこれを行なった場合助産師法を満たしているのではない。助産師法の枠外、医師法内でこれを行なっているのである。はじめから助産師法を犯しているのだ。今更助産師法違反で医師を逮捕するのは理論的におかしい。堀病院事件は業務遂行中の救急車やパトカーを道路交通法違反で捕まえてしまったのと同じだ。警察の早とちりである。

 

業務独占という視点から見るとよく分かる。人体に放射線を当てることが出来るのは医師、歯科医師、臨床放射線技師であり、これは医師法下等にあってもこの3者の業務独占である。対して助産は助産師と医師の2者の業務独占とはならない。「助産は助産師または医師でなければ行なってはならない」と書いてあればこの2者の業務独占ということになるが、そう書いてない。「医師法下ではそのかぎりではない」となっているのである。これはその前文の助産が助産師の業務独占であるという規定を否定していることになる。医師法下では助産は助産師の業務独占ではない。

助産師法と医師法の狭間で(P.23)

 

一般社会にあってのみ助産は助産師の業務独占となる。医療機関内で助産が助産師の業務独占ではないなら、医師が行なう医療行為、これが助産行為であろうと、その医療の補助をする、つまりその助産の補助をする看護師に違法性はない。この医師もこの看護師も法を犯していない。看護師に行なわせた業務が"医療の補助"の枠を超える高度医療業務ならこれは医師法違反が適用されるべきである1)。ただこの行為はそこまでの高度医療にならない。医師の指示の基、看護師が注射するのが医師法違反に問われないのと同様、医師の指示の基で行なった看護師の内診は医師法違反に問われないと考えるのが自然である。

 

Ⅲ、助産師法と医師法の両者を満たす意味

 

助産師と医師の両者が分娩に立ち会うのが法的に優れているか否か。

 

助産師法と医師法、これが"or"の関係にあることは先に述べた。では"and"の状態は成立するか。助産師法と医師法の両者を満たすことはあるか。助産師と医師の2つの免許を持った医師はいない。一人では無理である。しかしその分娩室に、助産師も医師も立ち会うことにより助産師法も医師法も満たしているのだと言えるだろう。医師法のみを満たすより助産師法と医師法の両者を満たす方が法的にはより高度な状態と考えているのが現状であろう。薬剤師と医師との関係を考えてみる。医師のみがチェックするより更にその処方を薬剤師の目を通すというダブルチェックの方が優れているのは明白である。それと同じ考え方が医師と助産師の間でも言えるか。いやこれらは同質に置くことは出来ない。薬剤師は医師以上に薬剤の知識を持っている。だが助産師が産科医以上の産科学を収得しているとは言えない。助産師法を満たすということは医療を排除することになる。医療を排除してしまった方がランクは下がるとみなければならない。だが助産師法を守り通すという方法もないではない。犯人追跡中のパトカーを例にとる。

助産師法と医師法の狭間で(P.24)

 

警察官としての業務規定を守りながら道路交通法も犯さないで犯人を逮捕することもあり得る。医師が分娩室にいても何も医療を施さない、助産師法を犯さない分娩はありうる。しかし逃亡中の犯人がスピードをあげれば追跡中のパトカーは制限速度を超えるスピードを出す。このときパトカーに乗っている者全員がすでに道路交通法の枠外にいる。分娩室において1つでも医療が施されたとき、その分娩室にいる全員が助産師法の枠外となる。分娩室に入り血管確保1つでもしたらその状態になるのである。だから助産師法と医師法を"and"の関係に保つ、つまり両法を無理に満たそうとする意味はない。

 

Ⅳ、特定看護師

 

助産師法の問題は特定看護師の法制化を考えて行く上でのいい見本となろう。特定看護師制度が法制化されればその資格を持った看護師がいなければ今まで一般の看護師にやらせていた仕事を医師自らが行なわなくてはならなくなる。医師の負担を軽減するという最初の目的は達成されない。それどころか医師の負担が増えるのだ。看護師の内診を禁じたら医師の仕事が増えたのと同じ構造である。こうしたものを法で括ってしまうと後で身動きが取れなくなる。日医がミニ医師はいらないと喝破してみせたのは賢明であった。 医師がどの科の医師でも医師免許という1つの法的資格であると同様に医療の補助を行う看護師も看護師免許という1つの法的資格であるのがいい。特殊技能を持つ各科の看護師達は医師の認定医と同様に認定看護師という地位で待遇を良くすればいいのである。

 

Ⅴ、今後に向かって

 

 助産師が多量に輩出されるようになった今後、助産師法と医師法との間の法の競合が起こる。

助産師法と医師法の狭間で(P.25)

 

「私達は医師の指示下にありません。私達は異常分娩の手伝いは行いません。それは助産師の仕事ではありませんから」という助産師達の主張が起こった時それにどう向かい合っていけばよいのか。困った事にこの主張は法的に正しいのである。助産師が悪いのではない。助産師法がよくない。医療機関内で助産師法を振りかざしたり助産師法の枠内に閉じこもったりされるのが甚だ迷惑なのだ。

 

1、3種の法構成

 

これら助産師法の主張にどう対処すればいいのか。医師の立場として考えてみた。3種の法構成を建てた。タイプA:院内すべてを医師法下におく。タイプB:助産師は助産師法下のみの業務を行なう。タイプC:助産師を助産師法下の助産師として業務に付かせたり看護師として業務に付かせたりと適時異動させる。以下それらを解説する。

 

(1)タイプA:院内すべてを医師法下におく。助産師法が活動する場所はない。助産師を排除してしまえば手っ取り早いがそこまでする必要もない。助産師を残したままで助産師法を封印する。分娩室手術室外来待合室に至るまで院内全域が医師法下である。院内の助産師は法的に看護師として勤務する。高度な産科医療知識を持った高級看護師である。産科医療に加わりたいと希望に燃えて助産師資格を取った若者もいるだろう。いいのである。彼女等は優秀な産科医の基で正常分娩異常分娩の経験を積むのだ。そこで10年20年修行し、その後、自分で開業助産所を持つとき、初めて助産師法の法的適用を受ける。こうした開業助産師は信頼に値する。

 

(2)タイプB:助産師の業務と医師の業務の棲み分けをする。助産師法下で行う業務は助産師が責任を負い、医師は口を出さない。

助産師法と医師法の狭間で(P.26)

 

助産師から手に余るという助けを求められたとき医師の基に搬入する。正常分娩は助産師が行い、異常分娩は医師が行なうという棲み分けである。

 

(3)タイプC:助産師を助産師法下の助産師として業務に就かせたり、看護師として業務に就かせたりと適時異動させる。この異動は医師の命令に従ってもらう。今から看護師として医師の下で行動しろという指令が出たならそれに逆らう事は許さなれない。それでも逆らうなら解雇である。

 

おわりに

 

助産師が量産され産科医療現場に占める助産師法のウエイトが多くなった今、この法に如何に対処するかが求められる。自分の医療機関がタイプAなのかタイプBなのか、あるいはAとBが混在するタイプCに該当するのかを決定しておくのが混乱を避ける第一である。そしてこの区別を医師、助産師、看護師、そして総合病院なら院長も共通の認識を持っておく必要がある。 求められるのは産科医が精神的に強くある事である。新しく産科医長が赴任して来たとき「今日から当院はタイプAで行く」と宣言するくらいの事はあってもいいと思う。他に何かいい手があるかもしれぬ。兎に角うまく工夫してこの難局を乗り切って欲しい。ここまで書いた筆者の密かなつぶやき、「法に欠陥があると言った。しかしひょっとしたら法の方が正しいのかもしれない。我々が法の運用を間違ったのだけなのではないか。法はこう言っている。助産師が医療機関に入ったときは看護師となり医師の手伝いをしなさい、と。医療機関内では助産師法はすでに効力を失っている。そう考えればすべてつじつまが合う。助産師が医療施設内に入ったとき、医療を否定する助産師法を導入したことが矛盾を胚胎させた」

山口県医師会会報 2013年1月号に掲載

 

文献

「看護師の内診は違法か」日本医事新報 No.4303 2006年10月14日発行

アウトロー(P.27)

 

 質問1:アメリカで人工妊娠中絶が禁止されている州はどこですか。回答:禁止している州はありません。(1973年アメリカ最高裁判所は、子どもを産むか産まないかの問題は女性のプライバシー権に属するとして、州が人工妊娠中絶を法的に規制することは憲法違反であるとの判決を下した)

 

 質問2:日本で人工妊娠中絶が禁止されている県はどこですか。回答:すべての都道府県で禁止されています。刑法上の堕胎罪が適用される。ただ、母体保護法という特殊な法が満たされる場合に限ってこれが合法となることになっている。

 

 そして不思議な事に、日本では人工妊娠中絶の是非が選挙の争点とならない。アメリカではいまだ政権を争う中でこの問題が取り上げられている。オバマは中絶容認派だとか否だとか。

 

これは日本人の法意識の違いと言える。日本人が遅れているとか倫理感が薄いとかという事ではなく考え方が異なるのである。日本では2重規範が取り入れられているのだ。「日本人の法意識」川島武宜著1967岩波新書

 

 キリスト教のような経典宗教である一神教は神との契約が絶対である。その縦の考え方が人間間の横の契約、紙に書いてある法が絶対という考え方に繋がる。ところが日本には捨てる神もあれば救ってくれる神もあるという考え方がある。建前と本音の違いあるいは理想と現実の違いと言おうか。それは法意識の違いなのである。

 

母体保護法指定医指定権は現在は都道府県医師会会長がその指定権を持っている。これは昭和23年、日本が占領下の時代にGHQがこのようにした。こう断定すれば反論が起きる。しかし日本がGHQに阿いてそう決めたのであろうから同じことだ。母体保護法の前身は優生保護法と言った。

アウトロー(P.28)

 

優性を保護する、言い換えれば劣勢は排除するという考え方である。この法を日本政府に任せるのは危ないと考えたのであろう。これは医師の集まりである医師会がいいだろうと考えた。これがいまだ存続している。

 

現在、医療に関する各種資格は厚生労働大臣から交付されている。医師の資格、看護師の資格、臨床放射線技師の資格等々。ただ母体保護法指定医資格だけは特殊でこれは民間団体である都道府県医師会長からの交付である。このような指定の例は他にない。母体保護法指定医資格も厚生労働大臣から交付されるべきだと厚生労働省が考えるのは当然だろう。

 

この指定権は母体保護法の中に規定されている。その指定権に関する法の文言だが平成20年までは以下のようなものであった。

 

「都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師は、~」という文面であった。平成20年にこの「社団法人たる」という文言が「公益社団法人たる」に書き改められた。新公益法人法制度は平成20年発足から暫定5年の平成25年から効力を発する。これを見越しての法改正であった。公益社団法人になれない都道府県医師会には指定医指定権を与えないとした。法を元通りにする事は許さないともした。ところがこれは厚生労働省の思惑通りには行かなかった。平成25年になって特例処置が取られたのである。公益社団法人でない都道府県医師会にも指定医医師指定権を与える。一般社団法人であっても「特定法人」としてこれを許すとしたのである。ただし公益法人にならない都道府県医師会は厚生労働大臣が必要と認めたとき報告を求め、又は助言若しくは勧告をすることができるという法文が付け加えられた。暫定的に厚生労働大臣の関与を残した形である。厚生労働省はこれで指定権収得を諦めた訳でなく、次々と手を打って来ている。

アウトロー(P.29)

 

この5月の日医ニュースにも載ったが郡市医師会に加入していることを指定権申請の条件とすることを禁止。指定・更新の為の研修会の形式は地域の裁量に任されていたものが、その他に特定のカリキュラム(生命倫理、母体保護法の趣旨と適正な運用、医療安全・救急処置)を加えなくてはならないとした。このカリキュラムは厚生労働省が作ったものではないという反論もあるだろう。しかし厚生労働省に阿いて作ったものであろうから同じことだ。今回この要求を乗り越えられても厚生労働省が指定権を欲しいなら更に次の手を考え出してくるであろう。

 

だが、この指定権が県医師会から取り上げられ厚生労働省に行ってはまずいのだ。

 

何故なら法に欠陥があるからである。説明しよう。

 

指定医本人に対する認可、施設に対する認可、これは厚生労働省が行なっても問題ない。問題は手術の適用である。これを法どおりにやりなさいと言われたらどうしようもなくなる。本来ならこの法はこういう文面でなくてはならない。「中絶手術はこれを行ってはならない。ただし指定医が認めた場合はその限りではない」こうなっていればいい。こう明確に指定医の裁量権を認めているのなら別に厚生労働省が管理しても問題ない。

 

 しかし、実際の母体保護法の文面は

 

1. 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの

 

2. 暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの、となっている。

 

アウトロー(P.30)

つまり強姦以外は"母体の健康を著しく害するおそれのあるもの"でなくてはならない。経済的理由にしてもその困窮度が酷く妊娠の継続が健康を著しく害するおそれのあるものでなくてはならない。現在の日本の妊婦にそのような状況が起こる事態はまずあり得ない。つまりは医学的適用外の中絶は認めないという事なのである。

 

 だが現状では健康な妊婦の正常な妊娠もこの手術が行なわれている。これを法的にどう説明するか。"望まない妊娠を継続することが妊婦の精神身体に悪影響を与える"これが"母体の健康を著しく害する"とかなりの拡大解釈をしてこの違法性を免れている。胎児条項による中絶を容認するのもこの考え方が適用されている。しかしこんな言い訳が公の裁判の場で通用するとは思えない。違法中絶と言われたらそれまでだ。ここにこの法の欠陥がある。母体の生命を助ける為の中絶ならこれは緊急避難であり、指定医である必要はない。真に医学的適用のあるものなら保険適用であろう。

 

これは産婦人科医である母体保護法認定委員会が産婦人科医の会員に対し「中絶の適用は厳密に守って下さいね」と言っているから成立している。阿吽の呼吸である。認定委員会と指定医はこの法の欠陥を補う関係なのである。

 

この法の管理者が厚生労働省に行くと、具体的にはその地の保険所長になると思われるがが、彼に「厳密に法を施行せよ」と言われると現時点で我々の行なっているほとんどの症例が違法中絶と解される。

 

ここに法の矛盾があるわけだが、矛盾した法を公の機関が管理するわけにはいかない。この法の矛盾を解消する為には法の枠外でこの業を行うしかない。アウトローである。母体保護法認定委員自身もアウトローなのである。アウトローの人間のアウトローの仕事をアウトローの人間が管理している形である。かく言う私も認定委員であり、そしてそこにはアウトローとしての規範がある、アウトローとしてのプライドがある。このギルド(同業者組合)の中でその中での不文律の掟を守り続けている。法外の法、理外の理を以ってこれを処理しているのである。

アウトロー(P.31)

   

法の不備があるからこそセミ・オートノマス(semi-autonomous 半自律的)なプロ集団を作り上げたのだと言えよう。

 

 いまこの状態で上手くバランスが取れている。レッセフェールの状態にある。これに手を加えてはいけないのだ。

 

レッセフェール(laissez-faire)とは、フランス語で「なすに任せよ」の意味。経済学で 頻繁に用いられており、その場合は「政府が企業や個人の経済活動に干渉せず市場のはたらきに任せること」を指す。アダムスミスの言う神の見えざる手が働いていると言う事だ。経済は自由経済に任せて置くのがうまくいく。しかし自由放任でうまく行かなくなったとき、インフレが進み失業者が続出して来るような場合のみ国が介入するのである。今うまく回っているものには手を加えてはならない。自由経済でうまく回っているところへ余計な手を加えて大不況をもたらした最近の例としては平成2年3月大蔵官僚から銀行へ出された通達、通称「総量規制」がある。これが平成の不況をもたらせた事は明らかであるがそれに責任を取った官僚はいない。

 

 厚生労働省にこの指定権の管理が任されそれがうまく機能する為には現行法のままでは不可能である。社会的適用による中絶を可とする法の改正が必要となる。そうすればうまく行くであろう。更に踏み込めば堕胎罪そのものを廃止するのがいいかもしれない。どうせ死文化している法なのである。姦通罪を廃止したように堕胎罪も廃止してしまえ。こうした性愛に関する問題は法で割り切れるものではないのだろう。中絶に違法性がないとなれば我々にとっても好都合である。そうだ、なくしてしまえ。一気にここまで持っていくのだ。指定権は厚生労働省に行き、この資格は国家資格となる。いいことずくめであろう。

 

 ちょっと待った。堕胎罪をなくし、それですべて解決であろうか。

アウトロー(P.32)

 

今、海外では経口剤で子宮収縮を起こす薬がある(膣座薬は国内にもある)。こうした薬剤がネット販売で流入してくる可能性がある。利尿作用のある錠剤、緩下作用のある錠剤と同様に子宮収縮作用のある錠剤としてネット業者が取り扱う。日本はこれを薬剤とは認めていない。という事は薬事法違反では取り締まれない。医師法違反にもならない。今こうした薬が搬入されて来ないのは日本に堕胎罪がある為である。これは刑法なのだ。実刑をくらう。ゆえに業者はうかつに手を出せない。堕胎罪をなくせばこうした薬剤の流入は避けられない。自宅で使う婦人が出るだろう。完全流産なら問題はない。大半はそうなるだろう。組織が子宮内に残り大量の出血が起こればその時は救急車で産婦人科に行けばいい。という考え方になる。お産で夜中に起こされるのはいいとしてこんな事で度々起こされるのはたまらない。子宮収縮剤ネット販売に対しては新たな法を設置すればいいと思うだろう。しかし一度流通し、それに慣れた人々を中々取り締まれないのは麻薬覚醒剤販売を見てもわかる。今の堕胎罪は意味のない法ではない。こうした薬剤流入の防波堤の役を果たしている。

 

法を書き換えて自由にこの手術が行われるようになるのはよくないのだ。現状のままがいいのである。この手術を受ける者もこの手術を行う者も、これは違法な事をしているのではないかという後ろめたさを感じる。この後ろめたさがこの手術の抑止力になっている。「女性には中絶を受ける権利がある」と声高々に主張するような風潮は抑えるべきだ。この国では堕胎は法で禁じられているという事が建前になっている必要がある。この法の欠陥が日本という土壌でうまく機能しているといえる。

 

独占禁止法について考えてみる。これまで、指定医申請の要件とされていた「郡市医師会長の意見書」の添付が独占禁止法に触れるとして廃止された。郡市医師会に加入していなくてもいいという事になったのである。しかし、郡市医師会に加入していなければ県医師会には入れない。日本医師会にも入れない。という事は県医師会長は県医師会員でないものに県医師会長名でこの指定を発行する事になる。

アウトロー(P.33)

   

はたして県医師会長に自分の圏域以外の者にその指定を発行する権限があるのだろうか。これを発行しない事が独占禁止法違反だというが、会員になってこそその会の特権が得られる事が独占禁止法違反になるだろうか。医師会へ入会させないと言うのならそうかもしれないが、そうでないなら独占禁止法違反とは言えない。市が提供する住民サービスを受けたければ住民登録して下さいと言うのと同じなのだ。今回の梃入れは我々のギルドを崩そうとする一手段にすぎない。

 

厚生労働省の最終目的が指定権を厚生労働省に持って行く事にあるのであれば更に第2第3の矢が放たれる事は間違いない。我々はそれに耐え切れないだろう。団結の弱い県から崩される。1つ崩れればそれは燎原の火のごとく全国におよぶ。厚生労働省は自分達が扱いやすいように法を改定して行くかもしれない。そのとき何が起こるか。この領域の医療崩壊が起こる。婦人のモラル崩壊が起こる。医師のプライドの喪失が起こる。プライドを失った医師はこの業から手を引く。真摯な医師ほど先に止めて行くであろう。そのような医師を失ったこの医療界は更に荒廃する。こうした負のスパイラルは大恐慌に陥っていく経済構造そのままである。この現実はもうに目の前まで押し寄せている。

 

狂瀾(きょうらん)を既倒(きとう)に廻らす者は誰ぞ!

許されざる者(P.34)

 助産師養成所において看護師資格を持っている者が指導助産師の基で10例の分娩介助を実際に自分の手で行なう事が助産師免許を得る為の必要条件になっている。この経験がないと助産師試験を受ける資格がないのである。

特に問題のない制度でこれに異論を唱える者など何処にもいない。だが、あえて異論を唱えてみよう。この行為は違法である。その業の資格を持たない者がその業を行うことは違法なのである。それは医師免許を持たない者に医療行為を行なわせることが出来ないのと同じだ。助産師免許を取った後でなくては助産行為をさせてはいけない。

いや指導助産師の基ではそれは許されているのです。そういう反論がでるだろう。しかし指導助産師というのは何だ。学校から教師の指定を受けているだけに過ぎないのではないか。彼女が持っている法的資格は助産師の国家資格だけである。もともとその人物が側に居ればその業の資格を持っていない者がその業を行ってよいという法的権限を持つものは日本に存在しない。どんな高名な名誉教授であれ、医師免許を持たな者に医療を行なわせることなどできない。

 だが運転免許を取るために教官が同乗して公道を走っているではないか。これは免許を持たない者が教官が側にいることにより車の運転が可能になっているいい例ではないか。なるほどそう来るか。しかしこの生徒は仮免許という立派な免許を持っているのである。教官にその業の免許がない者にその業を行わせる法的権限などない。この教官も自動車学校から教官として指名され運転技術を教えているだけである。仮免許がある者は運転免許を取って5年以上経っている者が同乗していれば運転してよいことになっている。

 この看護師は助産師仮免許を持っているか。そんなものありはしない。免許がなければ違法である。

その間違いに気付かず、指導助産師として認定された助産師は、自分が付いていれば学生に赤ん坊を取り上げさせても違法ではないのだと思い込んでしまった。指定した学校側もそう思い込んでおり、指導を受ける学生もそう思い込んだ。それだけではない、医師達もそう信じているのである。

許されざる者(P.35)

指導助産師が「私は学生に赤ん坊を取り上げさせる事ができる資格を持っています」そう言われると疑いもせず、「ああそうですか、ではよろしくお願いします」と答え、高額でこの指導助産師を雇い入れるのである。

そして病院内では患者にこう言う。「助産師学校の学生が実習に来ています。あなたのお産をこの生徒に取り上げさせてやりたいのですがご協力いただけますか。指導助産師が付いてこれを行いますので法的には問題ありません。むろんご同意していただければの話ですが」

ここは教育病院であり、格が上なのだと自負する。

法的には問題がないどころではない。法的に大問題なのだ。ここで患者に言っているのは「今から違法行為を行いたいと思います。それに協力していただけますか」ということである。法律音痴のオンパレードだ。

だがこれは我々の知ったことではない。これは厚生労働省と助産師間の問題である。医師法、医療法の枠外にある。我々はこの領域に介入することができない。

この投稿の目的はこうした事をあばき、助産師教育を弾圧する為ではない。投稿の目的は別にある。では本題に入ろう。

さて、本題に入る。

母体保護法指定医師の指定基準の新モデル案が提示された。その中の指定医を取るための要件に

「指定医師でない医師については、研修機関で指導医の直接指導の下においてのみ人工妊娠中絶手術ができる」とある。現行の文章は「何例以上の実地指導を受けたもの」であった。

指定医師でない医師がある条件下で人工妊娠中絶手術ができるという事はありえない。指定医師でなければ人工妊娠中絶手術はやってはいけない。これを可とするいかなる法的根拠もない。指導医が側にいても研修医は人工妊娠中絶手術は行なえない。

許されざる者(P.36)

指導中にこの手術を行っているのは法的には指導医なのだ。例え研修医がヘガールや鉗子に手を触れたとしてもこの手術の執刀医は指導医である。資格を持っていない者はこれを行なうことは許されない。(許されざる者)

モデル案のように文章を書き換えたらこの行為は違法行為となる。ここは「実地指導を受けたもの」と現行どおりにしておかなくてはならない。このモデル案は法的に間違っているのである。

しかしこれをいくら口で説明しても、「この件のつきましては母体保護法検討委員会で再検討しましたけど、母体保護法検討委員会においてすでに決定した事であり変更はしないという結論になりました」という回答になる。

なぜこうなるのか?ー諸悪の根源は助産師研修制度にあったー

母体保護法検討委員会を構成する医師達も自分達の病院で行なわれる指導助産師の助産師生徒の研修を見ている。これを違法だとは露ほども思っていない。受験条件には助産師なら10例のお産の取り上げ、指定医なら10例の人工妊娠中絶手術の施行とまったく同様の形式ではないか。それどころか助産師の方は自分で何例のお産の取り上げとはっきり書いてある。しかるに指定医の方は何例の実地指導を受けるなどと曖昧な表現である。これは自分で何例の人工妊娠中絶手術の施行とはっきり明記しなくてはならない。

助産師教育の違法性を認識出来ていないのであるから、このような結論に至るのは当然の帰納である。

①指導中の人工中絶手術においてこの手術を行なっては法的には研修医でなくて指導医である。

②公道走行中の運転の練習においては車を動かしているのは法的にも生徒の方である。 

この違いが分れば指定基準のモデルにおいて現行どおりでなくてはならないのは明白であろう。

研修医は中絶手術を行なってはいけないのである。

許されざる者(P.37)

資格がなければその業を行なってはならない業において、その資格を得る為にその業を10例経験しなくてはならない。しかし資格がないのにその業を行なうことは違法である。違法行為をしなくてはその試験を受ける権利がない。

さあどう切り抜けるか。

が、この法の矛盾を”実地指導”という言葉が見事に解決してくれた。すばらしい、おみごと。拍手喝采、ファンファーレ!!

この文章を作ったのは医者ではないな。法律の専門家に依頼して書いて貰ったに違いない。それほどすばらしい。いやもしかして我々の先輩に法律にめっぽう強い産婦人科医がいて、その人が作ったのかもしれない。いずれにしても我々の先輩達が苦心して残してくれたものである。我々の時代にそれを損なうようなことがあってはならない。

助産師教育の方はこのまま改善されなければそのうち司法の手が伸びるかもしれない。そのとき我々がそれと同じであってはならない。

デモクラシーの崩壊(P.38)

 

昨年医師会総会での出来事

議長「第1回医師会定時総会を開催致します。会員総数51名、出席会員16名、委任状提出者25名で過半数に達しており総会は成立致します。よって開催を宣言致します」

会場から疑義「議長、この総会は成立していないのではないですか?総会は今始まったばかりであり委任状提出者の議決権を行使は未だ行われておりません。新しい定款によると議決権を行使した会員は出席とみなすとあります。しかし委任状提出者は未だ議決権を行使していない。現在の出席者は16名であって半数に達しておらず総会は成立していない」

議長「定款が悪いのか」「そういうことになります。①総会に出席しない会員は書面あるいは代理人を立てて議決権を行使することができる。②前項を採用する場合はその会員は前条における出席者とみなす。という文章になっていればよかった。それを議決権を行使した会員と“行使した”という過去形を使ってしまった為このような事になった」

しかしこの疑義はその質問者を除く出席者全員により棄却された。

では、本当に総会は成立していないのか。成立していない。定款の文字面から読めばそうなる。

以前私が所属していた医師会でこんな事件があった。会長選挙の当日、今まで会ったことのない若い勤務医の医師が多数選挙会場に訪れた。次期会長に選出される人の顔も知らない医師達である。長老フィクサー格の人が自分の押す人物を選出しようとしての組織票を狙っての行動であり顰蹙を買ったのは言うまでもない。しかしこれは非難されるべきものではない。一人1票、それも一人一人選挙会場に足を運んでいる。自分が思い入れている人を当選させたくて有権者を会場に呼んでくるのというのは正当な選挙活動である。この時デモクラシーは生きていた。

それから20年後、天国から見ているこの長老フィクサー大先生もびっくり仰天腰を抜かした。

デモクラシーの崩壊(P.39)

「なんじゃ、こりゃ~。一人で70票を持つという怪獣が現れたぞ~」「あれはリヴァイアサンとかベヒーモスと言われるものです」「どこからやって来たんじゃ」「新しい定款がこの怪獣を産みました。その産みの母は県のモデル案ですけど*」「生きておるのか」「生きています」

*(注)2012.5.16 9:34更新一般社団法人郡市医師会 定款モデル案

(書面決議等)

第21条 総会に出席しない会員が書面によって議決権を行使をすることができることとするときは、会員は、あらかじめ通知された事項について、書面によって決議することができる。

2 総会に出席しない会員は、他の会員を代理人として議決権を行使することができる。

3 前2項の規定により議決権を行使した会員は、前条の規定の適用については、総会に出席したものとみなす。

今年も医師会総会の案内状が届いた。出欠を問うものであった。私は出席と返事した。その出欠票の下半分は委任状になっている。欠席の者は委任状を提出とある。総会に関する一切の権限を誰々に委任すると書いてある。総会における全権を委任するとは何処かで聞いたような覚えがある。そうだ、ヒットラーの全権委任法である。ワイマール憲法という優れた憲法を持ちながらこの全権委任法の成立でナチスの独裁となった。デモクラシーは死んだ。かくも全権委任は恐ろしい。

さて、民主主義下で全権委任や票の委譲は有り得るか。通常の政治家を選出する選挙をイメージして考えてみよう。中小企業の社長が従業員10人は選挙当日工場で働かせておいて、社長が10人の代表で選挙会場に行く。社長のを合わせて11票ある。これをすべて社長が選んだ候補者に入れる。こんな事は許されていない。当日仕事があるなら期日前投票で前もって投票するのだ。本人が行かなくてはならない。これが一般社団法人法による書面による議決権の行使にあたる。

デモクラシーの崩壊(P.40)

では議決権の代理行使とはどう考えればいいだろう。法では代理人は誰でもよい事になっている。奥さんを会議に出席させてもいいし事務長に行かせてもいい。だが医師会の定款では代理人は会員であることに限定しているから定款に従って会員の医師に頼むことになる。例えば私が会議の当日東京へ出張で会議に出られないとしよう。その日の会議はA案を採決するかB案を採決するかという決を取る事が知らされていた。友人の会員に私はB案を取るという事を伝言し代理人として出席してもらった。彼は言う。八木先生はB案です、私はA案です。ここに2票ありますが、AとBの1票ずつです。これならいいのだが、出席していない者に発言権は無い。わしがこの2票を使う。わしがAと思うのだからこの2票はAに入れる。こうすると私の議決権は行使されていないことになる。私が白票としたなら白票で投票しなくてはならない。私の票はAに入れてはならないのだ。当法においては一人が2票持つことは許されていない。対して会社法人ではそれが許されている。

ひとりが持つ議決権の重さという観点から考えてみる。冒頭の医師会総会を例にとる。会員総数51、出席者16、委任状25という数字がならぶとき、旧医師会なら16人で協議だ。16人は平等に1票ずつの権限がある。協議ののち評決となり多数決で決定する。しごく民主的である。対して新制度では仮に私が会長だとして、会長でなくてもいいんだが、私の手の中に25票の委任状があれば、私のを合わせて26票ある。26票は総会員数51の半数を超える。もう総会を開くまでもない。票を集めた時点で決着は付いている。会議の議題が岩国市医師会との合併問題だったとしよう。総会出席者のうち私ひとりが合併に賛成であとの15人が合併反対だったとしても評決は「本日の総会において岩国市医師会との合併が決まりました」ということになる。これは合法となる。だがこんな独裁者の出現を許していいのか。本来なら私が合併を成立したければ委任状をくれた25人を説き伏せて25人の個々が合併が必要だという判断を下していなくてはならない。だがもうそんな手間暇をかける必要がなくなった。医市会病院を閉鎖しようという考えがでたとき、そこの医師会長ひとりがそう決めればそれが可能になるというシステムができあがった訳である。だがそんな事をしていいのだろうか。どこかが間違っている。むしろ旧医師会の方が民主的であった。

デモクラシーの崩壊(P.41)

旧医師会のままでよかったという話をすると今でも次のような反論があがる。その選択肢はなかった。公益社団法人か非営利型の一般社団法人になるしかなかった。そうしなければ解散だった。というものである。だがこれは法人でなくなるという意味で、その意味では法人は解散だろう。しかし玖珂郡医師会が雲散霧消してこの世から消えてしまう訳ではない。今まで通りの会長、役員その他会員の組織は存続するのだ。法人ではない普通の医師会、120年前に創設されたと同じ医師会なのである。公益法人改革関連3法にあるこの文章をヤクザ組織の解散命令だと思い込んでしまった。主語の読み違いだ。主語は「郡市医師会は」ではなく「社団法人は」なのである。法人でない医師会あるいは営利法人にすることもできた。残余財産を処分する必要はあったけど、委任状出席をもって会を成立させ、実際の出席者だけで協議、議決するという従来のやり方を保とうとすればそうする方法もあった。だが我々は従来のやり方を捨てて非営利型の一般社団法人を選んだ。それは税理上の有利というより名誉の問題であった。それならそれでいい。しかしこれを選んだ以上今後はこの法に縛られる。

ただこの旧医師会形式にも欠点はある。協議する16人の数がどんどん減って行き、例えば3人になったとしよう。これでは寡頭政治に陥ってしまう。この寡頭政治を防ぐ為に新法は出来たともいえる。16人で協議する場合、ひとりが1/16の権限を持つ。これは100人が参加しひとり1/100よりもより強い権限である。一般社団法人法は1/16の強い権限を持つ出席者に議決権を行使する欠席者25人を加え41人で議決を行えと言っているのだ。この場合ひとり1/16の高い権限がひとり1/41の低い権限となりより多くの人の参加となる。一人ひとりの権限は1/41で平等だ。決して26/41の権限を持つ独裁者の出現を想定しているのではない。この法が要求しているのは平等な1/41の権限を持つ人々の出現である。なるべく多くの人の参加でなるべく一人ひとりの権限は少なくする。これがこの法の目的である。法としてはいい法なのだ。読み違いさえしなければ。

一般の選挙と株式会社の株主総会の違いについて考えてみたい。株式会社の株主総会では株主は株式1株につき1個の議決権を有する。つまり一人で複数の株を持っていれば一人でそれだけの数の議決権を持つことができる。

デモクラシーの崩壊(P.42)

対して一般の選挙ではひとり一票だ。具体的な例をとってみよう。まず株式会社の方の例を示す。X氏が2000株、Y氏が1000株を持ち、z氏達100人がそれぞれ1株を持っていたとしよう。X氏とY氏の合同の3000株でこの会社の方針を決定して行く。100株では太刀打ちできない。100人が数の力でz達側の方針にする事はできない。X氏ひとりでも彼の方針を通す事ができる。彼はそれだけの投資をしているのだ。株式会社ではそうなる。ところがこれを一般選挙の考え方になおすと、どんな強力な権力を持ったX氏もY氏も1票だ。2人より100人が選んだ方に決定する。これが民主主義である。財(資本)を主としたのが資本主義であり、人(民)を主としたのが民主主義である。どちらにするかで結果に極端な違いが生じる。いままでこの峻別が曖昧であった。この両者の違いを明確にしたのが新法である。民主主義下の選挙において資本主義の原理を適用しようとしてはならない。

委任状について考える。

新しい制度でこれほど重要な位置を占める委任状という言葉がなぜ定款の中に記載されていないのか不思議とは思わないか。定款の中に「委任状を以て議決権を譲渡出来る」とする文言を入れておけば問題ないはずであろう。だがない。それはそのような定款では知事の認可が降りないのだ。定款の文言は委任状という文字は入れず「代理人による議決権の行使」としなくてはならなかったのである。そうしておいて運用する際はこれを委任状にしてしまった。これは新しい制度でこの言葉が市民権を得ていないことを如実に示す。

旧来の委任状は「わたしの権利を捨てる」であった。これならまだいい。新しい制度での委任状は「わたしの権利をゆずる」である。権利をゆずられた人の権利はどんどん増大して怪獣の出現となる。新しい制度での委任状は危険物であり存在してはならないものだ。 委任状が使えるという根拠は同法50条にあるとしている。

デモクラシーの崩壊(P.43)

(議決権の代理行使)

第五十条 社員は、代理人によってその議決権を行使することができる。この場合においては当該社員又は代理人は、代理権を証明する書面を一般社団法人に提出しなければならない。

この法文の「代理権を証明する書面」=「委任状」ととった。

さらにこの「委任状を提出した」ことは「議決権を行使した」ことになるととった。かなり強引な解釈だ。そうなると「委任状を提出した会員」=「議決権を行使した会員」なのだから会議の初頭ですでに出席者とみなされあの冒頭の疑義は認められない。

すべての元凶がここにあった。法の読み方を誤ったのだ。

正しい読み方はこうだ。代理権を証明する書面は「委任状」に相当しない。この書面は代理人が正当な代理人であることを証明するだけのものにすぎない。代理権を証明する書面を提出したことは議決権を行使したことにならない、実際に議決権を行使してはじめて議決権を行使したことになる。同法は委任状を認めていない。同法は独裁者の出現を許さない。

新しい法の中には委任状は存在しない。他人に自分の権利を譲る(委任する)という概念がないのである。

自分の権利は代理人という媒体を通して自分が行使するのだ。

我が学生時代(P.44)

入学する前の年、全国学生剣道大会で日大が優勝した。テレビで見ていた。日大に憧れた。入学のとき荷物は郵送し剣道防具の入った袋と竹刀だけ担いで岩国駅から列車に乗った。るんるんの剣道少年であった。大学に行って守衛さんに剣道部はどこにありますかと聞くとすぐその裏にあるという。医学部の運動部と本部の運動部とは別々だったのだ。君が八木君かと先輩が声をかけてきた。有段者が入学してきたと分かってた。6年間の剣道部生活の始まりである。何年生のときだったか、オール日大の剣道大会で個人優勝した。本部の剣道専門の部員以外の大会だったが格は高いものだ。これを聞いた生化学小林茂三郎教授が喜んで特別に学部長名入りの表彰状を作って下さった。運動部は精神も鍛えなくてはならないということで下宿で一緒だった野球部の先輩と奈良の禅寺で合宿した。座っていても何もわからぬ。座禅の合間に裏庭で木刀を振っているときの方がよほど精神にいい。武士たるもの茶の心得くらいなくてはならぬと剣道部同級生の小口義夫君と茶道の師匠のところへ入門した。お手前の洗練された無駄のないうごき、しかも淀まない。一挙一動に精神を集中する。後の私の手術作法の原点となった。というのは言い過ぎである。山岳部の合宿に連れて行って貰ったこともあった。山から帰ってくると下宿のおばさんに、まあ逞しくなってと言われて一端の山男になった気でいた。ナルシストなのだ。運動部は剣道部だったが、文化部は自動車部に属した。鴨下一郎君らが中心となって小型車数台で学生だけでシルクロードを走破しようというプロジェクトを立てていた。部員達は車提供会社やスポンサー探しに奔走した。自動車部部長の小林茂三郎教授もおおいに乗り気だった。結局実現しなかったが壮大な夢だった。鴨下君とふたりで近畿から山陰への自動車旅行をしたこともある。貧乏旅行で野宿したり自動車部の同級生の家に泊まらせてもらったりした。息子本人がいないのに友達だという事で泊めてくれるという学生に寛容な時代だった。自動車ラリーにも出場した。私はナビゲーターを務めた。チェックポイントを通過するのが早すぎても遅すぎていけない。車に積み込んだ手動の計算機で通過距離、経過時間から今現在の理想的な速度を瞬時に割出す。手廻し計算機が追い付かない。暗算で適当な数字をだす。この私の適当な計算がけっこううまくいくのだ。医者になってからもその手でやってる。

我が学生時代(P.45)

大学5年のおわり鴨下君は結婚した。仲人は小林茂三郎教授夫妻。その1年後卒業と同時に私も結婚した。仲人は小林茂三郎教授夫妻。司会は鴨下君がやってくれた。結婚した相手は小林茂三郎教授の後を継いで自動車部の部長であった微生物学山口康夫教授の娘だ。友人達は、剣道部で得たものインキンタムシ、自動車部で得たもの嫁さんと揶揄した。

日大医学部同窓新聞 平成26年9月号に掲載

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.46)

平成15年、国会において「個人情報の保護に関する法律」いわゆる「個人情報保護法」が成立し、平成17年4月1日付けで施行された。医師もこの「個人情報保護法」を守らなくてはならないとして、厚生労働省からは「医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン」(平成16年)、及び「医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドラインに関するQ&A」(平成17年3月作成平成25年4月1日改訂)が出され、社団法人日本病院会の個人情報保護に関する委員会からは「病院における個人情報保護法への対応の手引き」(平成17年)が提示されている。これらに丁寧に医師の「個人情報保護法」に対する注意事項運用方法が掲載されている。これらを読んで疑問に感じるのはここに書かれている事はすべて医師の守秘義務で網羅されているのではないかという事である。守秘義務を課せられている医師にとって個人情報保護法に注意を払うのは意味のない事ではないか。いや意味のないというより個人情報保護法にばかりに気を取られ情報保護法をクリアしたから大丈夫だと思い込み守秘義務を蔑ろにするような事があれば本末転倒と言う事態が起きるのではないかと危惧するのである。

少しく個人情報保護法と医師の守秘義務の関係について見てみよう。個人情報保護法と守秘義務は同義語か。違う、別々のものである。違いをちょっと挙げてみる。①医師の守秘義務は刑法上にある。個人情報保護法よりも上位法である。医師や弁護士の守秘義務は刑法上に在るため警察官や市職員の守秘義務よりも上位である。②情報保護法は個人情報取り扱い事業者にのみ適用される。個人情報取り扱い事業者とは過去半年間に5千件以上の個人情報を取り扱った事業者をいう。医師の中にはこれに該当しない人もいる。紙カルテなら保存義務の5年経てば処分するだろう。電子カルテで10年20年と使っていれば5千件行くかもしれないがこれも5年間来てない人の分は削除すればいい。個人開業医なら個人情報取り扱い事業者に入らない人は多いのではなかろうか。私も個人情報取り扱い事業者ではない。だが守秘義務は医師ならどんなに小さな規模の開業医でも守らなくてはならない。

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.47)

③更に量刑が違う。刑法上の医師の守秘義務違反は六月以下の懲役又は十万円以下の罰金となっている。一方個人情報保護法の方はこの法を守っていない場合、この法を守るように勧告が出される。それでもでも改めないと勧告に従うように命令が出される。そしてこの命令に違反すると、六月以下の懲役又は三十万円以下の罰金が科される。このように3段階になっているのだから、うっかり法を踏み外したとしてもまず勧告があるのだ。その時点で改めれば問題は起こらない。命令が出されてからでもまだ間に合う。しかし医師の守秘義務違反は1例であっても該当すると裁定されれば刑罰が下る。

これに対し医師の守秘義務と個人情報保護法では守るべき項目が違うのだとする考え方もある。つまり医師の守秘義務は患者の症状診断治療内容を漏らしてはならないのに対して個人情報保護法で守るのは住所電話番号生年月日といった個人の情報なのであるとする考え方である。しかしそうであろうか。こんな例を考えてみよう。妻が夫には知られたくないとして産婦人科を受診する。後日夫が来院し「先月妻が受診したか教えて下さい。診断名、治療内容は聞きません」医師がこれに答える。家に帰り夫は「お前は先月何の用で産婦人科を受診したんだ」と問い質す。これはもう医師の守秘義務違反である。A氏が岩国錦帯橋空港を訪れた。空港職員がA氏を見たと証言した。これはA氏の個人情報を漏らしたことにならない。個人情報保護法違反にはならないが守秘義務違反になることは医師の場合には起こりうる。

医師の守秘義務は患者の個人情報全体をもを含むものであると理解されるなら医師は個人情報保護法の事は考えずにただ守秘義務を守っていればいいのではないか。この仮説が正しいか否か以下検証して行きたい。

妻が夫に秘匿したいと言った場合の事は前述した。では子供が親に内緒にと言ってきた場合はどう対処すべきであろうか。

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.48)

個人情報法保護法はどう扱うか

「医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン」及び「Q&A」から以下抜粋する。

各論Q5-3 未成年の患者から、妊娠、薬物の乱用、自殺未遂等に関して親に秘密にしてほしい旨の依頼があった場合、医師は親に説明してはいけないのですか。逆に、親から問われた場合に、未成年の患者との信頼関係を重視して、親に情報を告げないことは可能ですか。

という問いに対して回答は

A5-3 患者本人が、家族等へ病状等の説明をしないよう求められた場合であっても、医師が、本人又は家族等の生命、身体又は財産の保護のために必要であると判断する場合であれば、(第三者である)家族等へ説明することは可能です(個人情報保護法第23条第1項第2号に該当)

つまり個人情報保護法では本人が家族へ説明をしないように求めた場合でも医師の判断により家族へ伝えることは出来るとしている。

A5-3は続いてこう述べている。

一方で、未成年だから何でも親が代理できるわけでもありません。親が、法定代理人だといって子供の個人情報の開示を求めてきても、開示についての代理権が与ええられているか、本人(子供)に確認する必要があります(参照:ガイドラインp31)

ここではこうした条件が揃わない場合は家族へ伝えることは出来ないということになる。

個人情報保護法第23条1、2項とガイドラインp31を以下に示す。

個人情報保護法第23条:個人情報取り扱い事業者は、次に揚げる場合を除くほか、あらかじめ本人の同意を得ないで、個人データを第3者に提供してはならない。

1 法令に基づく場合

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.49)

2 人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき。

ガイドラインp31

法定代理人等、開示の求めを行い得る者から開示の求めがあった場合、原則として患者・利用者本人に対し保有個人データの開示を行う旨の説明を行った後、法定代理人等に対して開示を行うものとする。

結局、個人情報保護法では未成年の場合、親に告げるか否かを決めるのは医師の裁量権内である、医師が判断すればよいということになりそうだ。

次に医師の守秘義務の視点からこの問題をみてみる。

医師の守秘義務はこの問題をどう扱うか。

漏らされた情報は個人の財産であり、守秘義務違反は知的財産の侵害にあたるのだろうか。

ヒトの3つの自然権①生命②自由③財産のうち③財産ではなく②自由の侵害にあたると考えられる。医師の守秘義務は患者の自己決定権を守るものである。黙っていてくれという本人の意思を無視して他者にそれを告げるのは自分が告げていいという判断を下していないのにそれを行なわれたという自己決定権の侵害なのだ。

秘密告知の自己決定権の前に治療における患者の自己決定権について考えてみる。

親が子供を医者に連れて行く。子供は注射は嫌だと泣き叫ぶ。かまわず捕まえて注射する。これは本人の自己決定権を侵害している。いや、この場合その決定権は親が持つ。子供には自己決定権は与えられていない。保護下にあるからである。

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.50)

もう1つ私有財産について考えてみる。生まれたばかりの赤ん坊は何も財産を持っていない。しかしこの赤ん坊に父親が1億円与えたとしたら、この赤ん坊は1億円の所有者である。両親が死んで親戚の者が赤ん坊の保護者となってもこの1億円はその保護者の勝手には出来ない。その子の育児教育には使えるが保護者の借金の返済には使えない。その子が成人したらその子の判断で使うことになる。

では次に自己決定権について考えてみる。前述のように財産の処理の決定権は赤ん坊本人にあると言えるが、赤ん坊が病気になったとき保護者が医療機関に連れて行き、治療を受けるか否かの自己決定権は誰が持つか。これも私有財産と同様に自己決定権は赤ん坊が持つと考えるべきであろう。ただ赤ん坊には自己決定能力がない。その場合保護者という代理人が赤ん坊の自己決定を代行する。注射は嫌だと泣き叫ぶ子が注射を打たれるのもその子に自己決定能力がないと看做され保護者が自己決定を代行していると考えられる。保護者は保護者自身が自己決定権を持つのではなく、子供、赤ん坊の代行であるから子供、赤ん坊の不利になる決定は行う事が出来ない。養子として育てている子の腎臓を自分自身の子に移植するなどという決定は出来ないのだ。自己決定権の主体は赤ん坊が持つ。このとき赤ん坊は客体でなく主体である。赤ん坊が代理人を使って自己決定権を行使している。比較する為にペットのネコの不妊手術を引き合いに出してみよう。飼い主がネコを獣医さんのところへ連れて行き手術を受けさせる。このとき飼い主が主体でネコは客体、獣医は手段である。ここが人間の赤ん坊と異なる点である。

子供だけでなく、成人であっても自己決定能力を持たないと判断されたとき治療を受けるかの自己決定は代理人が行う。しかし代理人はその人の財産を自由にすることは出来ない。選挙権は病人であっても選挙管理委員会が病院に出向いて被選挙人の名前なり写真なりを指示したことが確認出来ればこれは1票となる。しかし自己決定能力を持たなくなった人の選挙権を保護者が代理に投票する事はできない。整理すると以下のようになる。

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.51)

治療を受けるか否かの決定権は保護者に移行する。選挙権は保護者に移行しない。財産権は自己判断能力がなくとも本人にある。

輸血を拒否する宗教がある。拒否しているのを医師が知りながら患者が意識不明になった状態で輸血を行えば、それで命が助かったとしても医師は訴えられ裁判例では負けている。これは自己決定権の侵害なのだ。同様に子供に輸血が必要なとき親が宗教上の理由で輸血を拒否すれば出来ない事になる。これは親が子供本人の自己決定権を代行していると看做されるからである。しかしもし子供が自己決定権を親に託していないと表明した場合、「ぼくはお父さんの宗教には入らない。手術を受ける、輸血を受ける、ぼくは生きたい」と意思表示したなら本来の自己決定権を持つ自己の決定と見る事が出来、親の訴えを無視していいのだろう。

14歳の女の子が妊娠して来た。親が中絶しなさいと言っても本人が産むといえば中絶する事は出来ない。反対に親が宗教上の理由で中絶は許さない産みなさいと言っても、本人が中絶すると言えばそのようになる。母体保護法には妊娠した本人およびその配偶者しか決定権が与えられていないのだ。未婚者ならその女性本人だけの決定ということになる。母体保護法は妊娠した女性のその親の介入を認めていない。

では秘匿に関する自己決定権はどうなるか。これも治療に関する自己決定権と同様本人自身にある。しかし自己決定能力がないと看做される時、保護者に移行する。保護者が他人には知られたくない、学校へも知られたくないと言えばそれは守らなくてはならない。子供独りで受診に来た場合、そこでは本人と医師との間に診療契約が結ばれたとみなくてはならない。診療契約には守秘義務も含まれる。

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.52)

さてここでもう1つ重要な問題がある。医師の守秘義務が阻却される場合です。①犯罪による傷害を診たとき②法定伝染病を診たとき③児童虐待の疑いを持ったとき等です(13歳未満の女子への性行為は本人の同意の上でも犯罪である)。これらは通報しても構わないのではなく通報しなくてはならない。このときは本人及び代理人が黙っていてくれと頼んでもそうはいかない。このとき守秘義務より通報義務が優先する。秘密に関する自己決定権は消失している。誰かに移行したのではない。医師に決定権が移行したのではないから報告するしないは医師の裁量下にあるのではない。

まあ、この件に関しては個人情報法保護法も医師の守秘義務も同じような事を主張している訳です。守秘義務の方がより厳しい気がする。他の項目も同じようなものだ。

患者の期待権?

ここで権利とは何かについて考えてみたい。17世紀にジョン・ロックは「人間は生まれながらにして3つの権利を持つと言った。その3つとは①生命、②自由、③財産である。これは国家ができる前の自然状態にすでにあった(社会契約説)。このロックの「私有財産の発見」で民主主義も資本主義も確立した。国家、社会がなくとも私有権はある。ロックから1世紀半がすぎてアメリカ独立宣言がなされた。独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンはロックに傾倒していたのだが、独立宣言には「生命、自由および幸福の追求」こそ「「天賦の諸権利」であるとは書いた。ジェファーソンが書いた「幸福追求の権利」というのはロックの言っていた私有財産権のことである。なぜジェファーソンはそこだけロックの表現どおりに書かなかったのかといえば、「私有財産の権利」と書くと独立後、だれもが裕福になることが保障されると思われると困るからである。裕福になる為に働くことで「幸福追求の権利」を得ると言い換えた。アメリカ人は、貧乏なのはその人は幸福追求の努力を怠っているからであって、それは個人の責任であるとした。

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.53)

今でも自分や自分の家族の命を守る為自分自身で銃を持つ。日本の憲法13条はこのアメリカ独立宣言の文章を踏襲した(小室直樹著「日本国憲法の問題点」P32)。憲法13条は「生命、自由および幸福の追求」となっている。これ以降は私の考えだが、この憲法の幸福の追求が日本では「患者の期待権の侵害」という考えに発展して行った。患者が期待していたように疾患が治癒しなかった。その場合、医師は患者の期待権を侵害した加害者である。

アメリカでは裕福になりたいと期待しても、それは自分で努力しなさいと言うことだ。そこで出た幸福の追求権、この表現を日本では期待すれば願いは叶うはずだととってしまった。これは本来意味する用語の誤った解釈なのだ。憲法はそんな事は保証していない。そうした誤解を解く為にも今度憲法を改正するときは元々のロックの表現に書き換えなくてはならない。憲法で護るのは①生命、②自由、③財産であると。

患者の自己決定権

医師が行ってならないのは患者の期待権の侵害ではなく、患者の自己決定権の侵害である。

患者の自己決定権は2種ある。

① 医療に関する自己決定権

自分が当該医療を受けるか否かを自分で決めるという自己決定権

② 秘密に関する自己決定権

自分の秘密を他者に伝えることを承諾するか否かを自分で決めるという自己決定権

医師の守秘義務は個人情報保護法に優先する(P.54)

医療(検査も含む)を行うときは患者の同意をとる。患者の秘密を他者に伝えるときも患者の同意をとる。この2つは今まで当然としてやってきたことではないか。その上で自己決定権の消失又は移動をしっかり見極めればいいのである。極めてシンプルな問題なのだ。個人情報保護法を持ち出すまでもない。

弁護士達が個人情報保護法が制定されたからといってなにか行う事が変わったか。変わってないだろう。顧客の秘密は始めから確固として守られているからだ。医師も同様である。

                                 著_者   八 木 謙

                                 発行者   八 木 謙

Table of Contents