デモクラシーの崩壊

 

八木 謙

 


昨年医師会総会での出来事
   議長「第1回医師会定時総会を開催致します。会員総数51名、出席会員16名、委任状提出者25名で過半数に達しており総会は成立致します。よって開催を宣言致します」
   会場から疑義「議長、この総会は成立していないのではないですか?総会は今始まったばかりであり委任状提出者の議決権を行使は未だ行われておりません。新しい定款によると議決権を行使した会員は出席とみなすとあります。しかし委任状提出者は未だ議決権を行使していない。現在の出席者は16名であって半数に達しておらず総会は成立していない」
   議長「定款が悪いのか」「そういうことになります。①総会に出席しない会員は書面あるいは代理人を立てて議決権を行使することができる。②前項を採用する場合はその会員は前条における出席者とみなす。という文章になっていればよかった。それを議決権を行使した会員と“行使した”という過去形を使ってしまった為このような事になった」
   しかしこの疑義はその質問者を除く出席者全員により棄却された。
では、本当に総会は成立していないのか。成立していない。定款の文字面から読めばそうなる。
   以前私が所属していた医師会でこんな事件があった。会長選挙の当日、今まで会ったことのない若い勤務医の医師が多数選挙会場に訪れた。次期会長に選出される人の顔も知らない医師達である。長老フィクサー格の人が自分の押す人物を選出しようとしての組織票を狙っての行動であり顰蹙を買ったのは言うまでもない。しかしこれは非難されるべきものではない。一人1票、それも一人一人選挙会場に足を運んでいる。自分が思い入れている人を当選させたくて有権者を会場に呼んでくるのというのは正当な選挙活動である。この時デモクラシーは生きていた。
   それから20年後、天国から見ているこの長老フィクサー大先生もびっくり仰天腰を抜かした。「なんじゃ、こりゃ~。一人で70票を持つという怪獣が現れたぞ~」「あれはリヴァイアサンとかベヒーモスと言われるものです」「どこからやって来たんじゃ」「新しい定款がこの怪獣を産みました。その産みの母は県のモデル案ですけど*」「生きておるのか」「生きています」
   *(注)2012.5.16 9:34更新一般社団法人郡市医師会 定款モデル案
(書面決議等)
第21条 総会に出席しない会員が書面によって議決権を行使をすることができることとするときは、会員は、あらかじめ通知された事項について、書面によって決議することができる。
2 総会に出席しない会員は、他の会員を代理人として議決権を行使することができる。
3 前2項の規定により議決権を行使した会員は、前条の規定の適用については、総会に出席したものとみなす。

   今年も医師会総会の案内状が届いた。出欠を問うものであった。私は出席と返事した。その出欠票の下半分は委任状になっている。欠席の者は委任状を提出とある。総会に関する一切の権限を誰々に委任すると書いてある。総会における全権を委任するとは何処かで聞いたような覚えがある。そうだ、ヒットラーの全権委任法である。ワイマール憲法という優れた憲法を持ちながらこの全権委任法の成立でナチスの独裁となった。デモクラシーは死んだ。かくも全権委任は恐ろしい。
   さて、民主主義下で全権委任や票の委譲は有り得るか。通常の政治家を選出する選挙をイメージして考えてみよう。中小企業の社長が従業員10人は選挙当日工場で働かせておいて、社長が10人の代表で選挙会場に行く。社長のを合わせて11票ある。これをすべて社長が選んだ候補者に入れる。こんな事は許されていない。当日仕事があるなら期日前投票で前もって投票するのだ。本人が行かなくてはならない。これが一般社団法人法による書面による議決権の行使にあたる。
   では議決権の代理行使とはどう考えればいいだろう。法では代理人は誰でもよい事になっている。奥さんを会議に出席させてもいいし事務長に行かせてもいい。だが医師会の定款では代理人は会員であることに限定しているから定款に従って会員の医師に頼むことになる。例えば私が会議の当日東京へ出張で会議に出られないとしよう。その日の会議はA案を採決するかB案を採決するかという決を取る事が知らされていた。友人の会員に私はB案を取るという事を伝言し代理人として出席してもらった。彼は言う。八木先生はB案です、私はA案です。ここに2票ありますが、AとBの1票ずつです。これならいいのだが、出席していない者に発言権は無い。わしがこの2票を使う。わしがAと思うのだからこの2票はAに入れる。こうすると私の議決権は行使されていないことになる。私が白票としたなら白票で投票しなくてはならない。私の票はAに入れてはならないのだ。当法においては一人が2票持つことは許されていない。対して会社法人ではそれが許されている。
   ひとりが持つ議決権の重さという観点から考えてみる。冒頭の医師会総会を例にとる。会員総数51、出席者16、委任状25という数字がならぶとき、旧医師会なら16人で協議だ。16人は平等に1票ずつの権限がある。協議ののち評決となり多数決で決定する。しごく民主的である。対して新制度では仮に私が会長だとして、会長でなくてもいいんだが、私の手の中に25票の委任状があれば、私のを合わせて26票ある。26票は総会員数51の半数を超える。もう総会を開くまでもない。票を集めた時点で決着は付いている。会議の議題が岩国市医師会との合併問題だったとしよう。総会出席者のうち私ひとりが合併に賛成であとの15人が合併反対だったとしても評決は「本日の総会において岩国市医師会との合併が決まりました」ということになる。これは合法となる。だがこんな独裁者の出現を許していいのか。本来なら私が合併を成立したければ委任状をくれた25人を説き伏せて25人の個々が合併が必要だという判断を下していなくてはならない。だがもうそんな手間暇をかける必要がなくなった。医市会病院を閉鎖しようという考えがでたとき、そこの医師会長ひとりがそう決めればそれが可能になるというシステムができあがった訳である。だがそんな事をしていいのだろうか。どこかが間違っている。むしろ旧医師会の方が民主的であった。
   旧医師会のままでよかったという話をすると今でも次のような反論があがる。その選択肢はなかった。公益社団法人か非営利型の一般社団法人になるしかなかった。そうしなければ解散だった。というものである。だがこれは法人でなくなるという意味で、その意味では法人は解散だろう。しかし玖珂郡医師会が雲散霧消してこの世から消えてしまう訳ではない。今まで通りの会長、役員その他会員の組織は存続するのだ。法人ではない普通の医師会、120年前に創設されたと同じ医師会なのである。公益法人改革関連3法にあるこの文章をヤクザ組織の解散命令だと思い込んでしまった。主語の読み違いだ。主語は「郡市医師会は」ではなく「社団法人は」なのである。法人でない医師会あるいは営利法人にすることもできた。残余財産を処分する必要はあったけど、委任状出席をもって会を成立させ、実際の出席者だけで協議、議決するという従来のやり方を保とうとすればそうする方法もあった。だが我々は従来のやり方を捨てて非営利型の一般社団法人を選んだ。それは税理上の有利というより名誉の問題であった。それならそれでいい。しかしこれを選んだ以上今後はこの法に縛られる。
   ただこの旧医師会形式にも欠点はある。協議する16人の数がどんどん減って行き、例えば3人になったとしよう。これでは寡頭政治に陥ってしまう。この寡頭政治を防ぐ為に新法は出来たともいえる。16人で協議する場合、ひとりが1/16の権限を持つ。これは100人が参加しひとり1/100よりもより強い権限である。一般社団法人法は1/16の強い権限を持つ出席者に議決権を行使する欠席者25人を加え41人で議決を行えと言っているのだ。この場合ひとり1/16の高い権限がひとり1/41の低い権限となりより多くの人の参加となる。一人ひとりの権限は1/41で平等だ。決して26/41の権限を持つ独裁者の出現を想定しているのではない。この法が要求しているのは平等な1/41の権限を持つ人々の出現である。なるべく多くの人の参加でなるべく一人ひとりの権限は少なくする。これがこの法の目的である。法としてはいい法なのだ。読み違いさえしなければ。
   一般の選挙と株式会社の株主総会の違いについて考えてみたい。株式会社の株主総会では株主は株式1株につき1個の議決権を有する。つまり一人で複数の株を持っていれば一人でそれだけの数の議決権を持つことができる。対して一般の選挙ではひとり一票だ。具体的な例をとってみよう。まず株式会社の方の例を示す。X氏が2000株、Y氏が1000株を持ち、z氏達100人がそれぞれ1株を持っていたとしよう。X氏とY氏の合同の3000株でこの会社の方針を決定して行く。100株では太刀打ちできない。100人が数の力でz達側の方針にする事はできない。X氏ひとりでも彼の方針を通す事ができる。彼はそれだけの投資をしているのだ。株式会社ではそうなる。ところがこれを一般選挙の考え方になおすと、どんな強力な権力を持ったX氏もY氏も1票だ。2人より100人が選んだ方に決定する。これが民主主義である。財(資本)を主としたのが資本主義であり、人(民)を主としたのが民主主義である。どちらにするかで結果に極端な違いが生じる。いままでこの峻別が曖昧であった。この両者の違いを明確にしたのが新法である。民主主義下の選挙において資本主義の原理を適用しようとしてはならない。
   委任状について考える。
   新しい制度でこれほど重要な位置を占める委任状という言葉がなぜ定款の中に記載されていないのか不思議とは思わないか。定款の中に「委任状を以て議決権を譲渡出来る」とする文言を入れておけば問題ないはずであろう。だがない。それはそのような定款では知事の認可が降りないのだ。定款の文言は委任状という文字は入れず「代理人による議決権の行使」としなくてはならなかったのである。そうしておいて運用する際はこれを委任状にしてしまった。これは新しい制度でこの言葉が市民権を得ていないことを如実に示す。
   旧来の委任状は「わたしの権利を捨てる」であった。これならまだいい。新しい制度での委任状は「わたしの権利をゆずる」である。権利をゆずられた人の権利はどんどん増大して怪獣の出現となる。新しい制度での委任状は危険物であり存在してはならないものだ。
   委任状が使えるという根拠は同法50条にあるとしている。
   (議決権の代理行使)
第五十条 社員は、代理人によってその議決権を行使することができる。この場合においては当該社員又は代理人は、代理権を証明する書面を一般社団法人に提出しなければならない。
この法文の「代理権を証明する書面」=「委任状」ととった。
さらにこの「委任状を提出した」ことは「議決権を行使した」ことになるととった。かなり強引な解釈だ。そうなると「委任状を提出した会員」=「議決権を行使した会員」なのだから会議の初頭ですでに出席者とみなされあの冒頭の疑義は認められない。
   すべての元凶がここにあった。法の読み方を誤ったのだ。
正しい読み方はこうだ。代理権を証明する書面は「委任状」に相当しない。この書面は代理人が正当な代理人であることを証明するだけのものにすぎない。代理権を証明する書面を提出したことは議決権を行使したことにならない、実際に議決権を行使してはじめて議決権を行使したことになる。同法は委任状を認めていない。同法は独裁者の出現を許さない。
新しい法の中には委任状は存在しない。他人に自分の権利を譲る(委任する)という概念がないのである。
自分の権利は代理人という媒体を通して自分が行使するのだ。






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